午後の標本

 蝉の声が遠くで滲んでいる。昼を過ぎて、熱の引かない空気が、部屋の中にじっとりと留まっていた。カーテンは半分だけ引かれて、日差しは机の縁と床の一角を白く照らしている。冷房のないその部屋で、長次は、制服のまま寝転がっていた。額には汗がにじみ、襟の裏がしっとりと濡れている。扇風機の風が断続的に顔を撫で、細い髪がふわふわと動いている。
「長次、焼けてないな」
 小平太の声が、扇風機の風の音と蝉の鳴き声との合間を縫って響いた。長次のすぐ横に腰を下ろし、半袖の腕にそっと触れる。皮膚は冷えてもいなく、かといって熱すぎもせず、ただ生きているとしか言いようのない温度だった。そのなめらかさに、息がかすかに熱を帯びる。
「図書室にしかいないから」
 返す声は短く、喉の奥でこもる。長次はまぶたを重く伏せたまま、うっすらと笑ったようにも見えた。
「夏に置いておくのが勿体ない白さだ」
 長次は、まぶたをうっすらと開けた。天井を見ているのか、それとも見ていないのか。目は少しだけぼんやりしていて、焦点が合っていなかった。
 その視線の行方よりも、小平太はまばたきの遅さを見ていた。言葉は返さず、けれど、怒るでも、照れるでもない。ただ、その白い腕の上に、一滴の汗が、落ちて滑った。長次は腕を動かさずに、そのまま、汗の筋が肘の方へ流れていくのを、じっと許していた。
 沈黙が部屋の中に沈む。それを破るように、長次がぽつりとこぼした。
「標本にでもするか」
 天井を見ていた視線が、ゆっくりと動く。片腕を折り、頬の下に滑り込ませるようにして小平太の方へ体を向ける。その声はあくまで淡々としていた。けれど小平太は、その投げられた言葉の温度を、耳ではなく肌で受け取ったように思った。
 小平太の視線が長次の頬を横からなぞる。汗が唇の端にかかりそうになっている。その汗を拭うかわりに、そっと言葉を返した。
「したい。透明な箱に入れて、じーっと見ていたい」
 言いながら、小平太は身を乗り出す。長次の横に手をつき、体ごと彼に覆いかぶさるようにして、背後へとまわりこむ。小平太もまた、長次と同じように目を細めた。まぶしそうにして、けれどその視線はまっすぐに肌を見ていた。触れるように丁寧に見ていた。
 小平太の指が、長次の肘の内側をなぞる。つるりと滑る感触が、皮膚の肌理を拾いながら上へと昇っていく。
「こへいた、」
 長次の声がわずかに掠れる。
「……暑い」
「触りたい」
 そのまま、指が首元の髪にかかる。やや長めの後ろ髪が貼りついていて、それを指で持ち上げると、そこだけが影のように白かった。ふだん陽に焼けることのない場所、うなじの窪み、柔らかく汗のたまるその小さな面積に、小平太の目が吸い寄せられる。
「ここはもっと焼けてない」
「……見るな」
「見るし、触る」
 指のかわりに、今度は唇がその肌にふれた。舌先がほんの少し、肌理を舐めとるようにすべる。
 長次の背がぴくりと跳ねた。声にならない吐息が喉でほどけて、視線を逸らすように天井を仰ぐ。
「……私は標本じゃなかったか」
「私のだ」
 そう言いながら、今度は襟の中に頬をすべりこませた。汗ばむ布越しにどくんどくんと心音を感じる。それがだんだん速くなっているのを、黙って耳で追った。

あとがき
小説用テンプレートをお借りした。このテンプレート本当に素晴らしい。フォントにはこだわりがあるためZENオールド明朝のほうに変更させていただきました。あとはページ送りが不要なのと、テキスト用ログのトップページに飛べるようにしたら完成かな。 パソコンから見ると三点リーダーがずれてしまうのが悔しいところですが、きっとスマホからみなさん閲覧されるでしょうということにして、今回は諦めますがいつか手を加えたいです。
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