花と蜜蜂 五

 ホテルのベッドに、ふたりは並んで腰を下ろしていた。沈黙は重く、息すらも詰まるほどだった。
 小平太は脚を組み、長次の顔をちらりと見て言う。
「なにもしてこないのは、どうしてだ」
 長次は、首をゆっくりと横に振った。
「……昔から繰り返し見る夢がある。女の夢だ。知らない女が、着物を着て、黒髪で、いつも背を向けて立っている。振り返りそうで、振り返らない。でもなんとなくずっと、その女が運命の相手なんじゃないかと思っていた。そんな中でお前と出会って……重なったんだ。お前と……夢の中の女が」
 小平太は、ただ黙って、長次の独白を見守った。
「最初は、お前のことをあの女だと思いこんでいたんだと思う。だが、だんだんとわかってきた。お前は、夢の中の女じゃないし、小平太子でもない。小平太だ」
 ずっと俯いていた長次が、顔を上げる。
 小平太は、長次をまっすぐ見つめていた。
「山に登ったあの日、確信した。小平太は私の運命の相手だ。だから……」
 言葉が喉で詰まる。
 小平太は眉を寄せて、静かに続きを促した。
「だから?」
「……これからも友達でいたい」
 小平太は、ひとつ小さく息を吐き、唇の端を持ち上げた。
「今のって愛の告白だぞ?」
 声音には、かすかな微笑がにじんでいた。だが、どこか意地の悪い色も混ざっている。
「それでどうして最後の言葉になるのか、さっぱり分からん。本当にそれだけでいいのか? 私に触れたいとは思わないのか? 運命の相手だというなら、触れて確かめたいと願うのが、普通じゃないのか?」
 言葉は出なかった。
 手のひらには、ぬるい汗がにじんでいた。
「……友達で」
 震える声で告げた長次の手に、小平太が、そっと指を絡めた。
「あついな。汗ばんでる」
「ん……」
 指が、長次の手の甲をなぞる。
 ふたりの視線が、ゆっくりと交わった。
「なんでそんなに友達にこだわる」
「山で、お前が……そう言ったから」
 その言葉を聞いて小平太はわずかに目を伏せた。
「私だって、長次のことを運命の相手だと思っている。不思議と、お前の言葉は、すっと胸に入ってくるんだ。最初からずっとな」
 ふたりは再び、ただ見つめ合った。
 握られた手を離すことなく、じんわりと指先を擦り合わせる。
 長次は思った。いつだって、小平太の背を見ているばかりだ。情けない。
 けれど、いま、自分の裡に問いかける。どうしたい?
 
 小さく息を吸い、長次は勢いよく小平太に身体を寄せた。ぶつかるように唇が触れ合う。
 目を見開いた小平太が、ほんの一瞬、呆けたような顔で長次を見る。
 「……さわりたい」

 
 指先が、ワンピースの裾をたくし上げる。
 長次は自分の鼓動が、耳の奥で爆ぜるように鳴っているのを感じていた。
 主導権を取らねばならない。最初の一線を、自分の手で越えねばならない。そう思い込むことで、自分を前へ押し出していた。
 指が太ももに触れる。熱い。息が止まりそうだ。
 背中に腕を回し、ワンピースのファスナーをおろす。布は重みで滑るように落ち、肩が露わになる。首筋から肩へかけて、しっかりとした骨の浮き。その下に広がるのは、あまりに男の体だった。
 胸板は厚く、腹には筋肉が走っている。脚も、尻も、引き締まっている。鍛えられた身体だった。昼間、現場で体を使って働いているという、その言葉の重みが、いま肌で伝わってくる。
 長次の手が止まった。
 頭ではとうにわかっていたはずなのに、目の前に現れた男の裸体は思っていたよりも現実で、重く、鮮烈だった。
 手が止まったまま、目だけが揺れる。その隙を突くように、小平太が、ふっと笑った。
「なにを今さら」
 そう言って、長次の胸を押し倒す。そのまま、騎乗のかたちになり、重みが長次の腰にのしかかる。
「リードするんじゃなかったのか?」
 耳元で囁かれた声に、長次の背筋が震えた。
「……できる」
「へえ、ほんとに? じゃあこの身体を見て、どこを触る気だったんだ?」
「それは」
「ないんだろ。男は慣れてなさそうだもんなぁ」
 小平太は、躊躇なくシャツのボタンを外していく。慣れた手つきだった。急ぐわけでも、見せつけるでもない。ただ、当然のこととして、指先を滑らせてくる。
「さっきまではずいぶん頑張ってたなぁ。キスもしたし、脱がせもしたし。えらいえらい」
 背中にぞくりとしたものが走った。長次はうつむいたまま、震える睫毛を伏せる。
 男の身体が、自らの上に覆いかぶさっているという、その現実が、長次にはどこか夢の延長のように思われた。だが、体重のかかる太腿の重さ、腹の熱、布越しの皮膚の感触が、ひとつひとつ確かに現実を刻んでいる。
 シャツの前をはだけられたとき、皮膚に触れたのは、あまりに荒れた指だった。その指先が、まるで仕事道具のように無言のまま、胸から腹へと這い降りてゆく。
 思考が行動に追いつかず、言葉が意味を成さぬまま、口の奥で崩れていって、ふう、ふうと浅く息を繰り返すことしかできない。
 そのとき、小平太がふいに問いかけた。
「こわいの?」
 声は柔らかく、悪意もなければ慈しみもない。まるでふと天気を問うような調子で、小平太はそれを口にした。
 怖いなどと言えるはずがなかった。それが否応なく真実に触れていたことを、長次は自分の沈黙によって知らされた。
 なぜ自分が下にいるのか。なぜ、こうして、される側に回っているのか。たしかに自ら仕掛けたはずのこの行為が、いつのまにか立場を反転させ、自分の意思が、他者の手のひらで緩やかに融けていくような感覚に変わっていた。
「……ちがう」
「じゃあ、なに」
「わからない……」
 息を詰めていると、小平太がゆっくりと身をかがめて、唇を寄せた。たあだ触れ合うその口づけが、かえって深く沈み込むように感じられた。
「んん……」
 喉の奥から、掠れた声がひとつ零れた。自分のものとは思えない、甘く震えた声に驚いた。
 そんな長次の耳元に、ひそやかに息がかかる。
「自分が今どんな顔してるか、わかるか?」
 意識が揺れ、思わず肩がすくむ。長次は今、自分の表情がどう映っているかを思い至る余裕など、とうに失っていた。
 唇がかすかに開いたが、声は出なかった。喉の奥に集められた否定の言葉は、形をなさず、沈んでいく。
 長次は、ぶん、と横に首を振った。それは拒絶の動きではなく、羞恥と混乱が入り混じり、逃げ道をなくした身体が、本能的に反応していた。
 小平太は、その様子を、じっと見つめていた。そして、満足そうに、ふっと唇の端を上げた。
「教えてやろう。いまの長次、すごくわかりやすい顔してるぞ」
 その声に、長次はかすかに眉を動かした。返す言葉はない。ただ目を逸らすしかできなかった。
「かわいい」
 やがて小平太の指先が、腹部から脇腹へ、そこから腰骨の際へ動く。その不規則な動きが神経を逆撫でする。下着の縁を、かすかに引っかけた。
「長次に触りたい」
 低く、柔らかい声だった。その手は、ゆるく膨らみを帯びていたそこを布越しにさする。
 長次は、返事ができなかった。否とも言えなかった。言葉は沈み、胸の奥で濁ったまま動かず、それが黙許として受け取られることを、止めようとは思わなかった。
 小平太は、その沈黙を了承ととったように、長次の下着の縁をゆっくりと引き下ろす。布がずらされるのと同時に、皮膚に冷たい空気が触れる。
 長次は目を伏せ、身体の内側に走った羞恥の熱を必死に押し込めた。次の瞬間、指先が触れた。
「……ッ」
 長次のものは、徐々に熱を孕み、怠惰な弧を描くように膨らみながら、確かな輪郭を帯びていった。
 小平太は静かに息を吐くと、己のものと擦り合わせる。粘ついた湿り気を孕んだふたりの熱が、音もなくゆっくりと、抗いがたく絡み合っていく。
「……気持ちいいな、長次」
「う、」
 小平太の吐息まじりの声が、耳朶を撫でるように落ちてくる。
 数度の律動ののち、動きが速まると、長次の腰がわずかに跳ねる。喉の奥から零れた吐息が、苦悶と恍惚をひとつに溶かして宙に散る。
 限界は、どちらともなく訪れた。呼吸が重なり、熱が打ち合わされると、ふたりは同時に果てた。
 
 熱の残滓を宿したまま長次は横たわり、ぼんやりとした眼差しで小平太を見上げる。その瞳に映るのは、なお女の姿を模した小平太だった。
 長次の指が動き、ゆっくりと、ウィッグの毛先をつまんで引いた。
「おお、おい、長次、引っぱるな。留めてあるんだぞ」
「んー……んん」
 小平太が困ったように軽く眉を上げる。
 長次は答えず、力の抜けた手つきで、もう一度くい、と甘えるように引いた。
「とりたいのか?」
「うん……」
 問いかけに、長次は小さく頷いた。
 小平太は笑いもせず、ふとひと息ついてから、首をかしげた。そして、伸ばした手でウィッグごとネットをつかみ、無造作に引き抜いた。
「ほら、とったぞ」
 隠されていた、小平太の黒髪が崩れ落ちる。彼はそれを手櫛でばらばらに梳きながら、肩をわざとらしくすくめてみせた。
 長次はただ黙ってそれを見つめ、やがて両腕を伸ばし小平太の肩をゆるやかに抱いた。引き寄せる腕は弱々しくもまっすぐだった。
 小平太はその仕草に目を細め、顔をゆがめる。表情の奥で、いくつもの感情が波立っているような、なんとも形容しがたい様子だった。彼は言葉を持たず、ただ、静かに抱き返した。
 ふたりは、それきりしばらく動かなかった。言葉も交わさず、ただ借りた部屋の時間が訪れるまで、お互いのぬくもりを確かめ合うように抱きしめていた。

 
 あの夢はきっと、これからもときどき見るだろう。
 だが、長次はその後ろ姿が何者かを知っている。
 それを失わぬように、眠りから目覚めても、決してその腕を離さなかった。
 

あとがき
そういえば、せっかくかいた表紙やら挿絵はどこにいれるつもりや。
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