花と蜜蜂 四
山を登ってから数日後、久方ぶりに上司と連れ立ってあの店へ赴いた。
仕事帰りにふらりと寄るにはいささか華美なその場所に、長次は週に三度も通っていたが、その事実は上司に秘していた。告げればきっと煩わしい詮索が始まることだろうし、何よりも小平太に会うあの時間が、ひそやかに特別な輝きを帯びつつあることを、誰にも知られたくなかったのである。
店に足を踏み入れると、制服を着たスタッフが一礼した。いつものキャストが顔を見せかけたところで、それとなく空気を察した別のキャストが、代わりに卓へとつけられる。初見のキャストがふたり、愛想よく笑う。
上司はといえば、いつものように酒の勢いに乗じて、キャストの肩を抱き、饒舌にくだらぬ話を繰り返していた。笑い声は妙に高く、耳障りだった。
長次は水面下で逃れるように席を立ち、用を足して戻る途中、ホールの角を折れたところで、不意に声をかけられた。
「長次じゃないか!」
まるで心の内を覗かれたようで、思わず足が止まる。
小平太だった。煌びやかなウィッグが光を反射し、ほのかに甘やかな香水の香りが漂う。
「なんだ、来てたのか。今日は来ないかと思ったぞ。仕事で遅くなったのか?」
いつものように、何気なく。その何気なさが、今夜ばかりは怖ろしく感じられた。ここで会うべきではない、長次は直感でそう思った。
「こないだは楽しかったな。またどこか行こうな!」
雑に塗り込んだファンデーションが、口角でひび割れている。うなずき、応じながらも、心が落ち着かない。
そのときだった。背後から低い声が割って入る。
「なんの話だ?」
振り向くと、上司がそこに立っていた。瞬間、空気が凍りつく。小平太は、このような空気も肌で感じ取る男だが、それを気遣う心映えには恵まれていなかった。
小平太は怯まなかった。飄々とした調子のまま、笑みを浮かべて言葉を交わす。
「このあいだ長次と、山に行ったんですよ。景色、きれいだったよな。長次」
言葉が刃のように響いた。
上司はすぐに顔を崩し、含み笑いを浮かべながら言った。
「それは今みたいな格好で?」
その一言が、はっきりと空気を濁したのがわかった。その瞬間、小平太の笑みがわずかに引き攣ったのを長次は見逃さなかった。けれど彼は努めて明るく振る舞い、言い返す。
「どういうことですか」
「ははっ。長次は君の、女の格好が見たかったんじゃないかなぁ。白いワンピースに、麦わら帽子。そういう、いかにもな女が、好きだもんなあ」
茶化すようなその言葉に、長次は何も言い返せなかった。
なぜなら、それは事実だったからだ。あの日、集合場所へ向かう電車のなかで、女性の服を着た彼の幻影を、明確に思い浮かべていた。その姿を「見たい」と思ったことを、自分自身が否定できなかったのだ。
我に返って、小平太の顔を見た。もうそこに笑みはなかった。彼の目は、冷え切っていて、言葉はなかったが、唇の端がわずかに歪み、それが何より雄弁だった。
否定しろよ。
その沈黙が、そう告げているようだった。
その夜は、小平太と、それ以上言葉を交わすことができなかった。ただ、気まずさだけが、音もなく胸に沈殿する。
それ以来、店に足を運ぶことができなくなった。
長次は変わらず、日々のどこかに彼の影を探していた。
ひとつだけ変わったことがある。思い描くのが、夢の中の女でなく、小平太子でもなく、小平太その人になっていた。
にもかかわらず、彼のもとへ足を運ぶことができずにいた。あの夜の、凍りつくようなまなざしが、脳裡にこびりついて離れなかったのだ。
ある日、小平太から不意に連絡が届いた。
─花でも見に行くか。
小平太にしては、あまりにもらしくない誘いだった。
長次は迷った。メッセージを開いては閉じ、言葉を考え、打ちかけては消す。それを何度繰り返したかわからない。結局、送ったのはただ「行く」の一言だった。
小平太は、どんなつもりで誘ったのだろう。あの夜のことを、忘れたわけではないはずだ。冷え切った目、突き放すような言葉。それでも、こうして連絡を寄越すということは、会えば、あのときの空気を塗り替えることができるだろうか。
ただ、小平太に会いたい。
それだけが、他のすべてを押し流していった。
待ち合わせは、山に登った時と同じ駅になった。人の行き交う駅前を見渡すが、それらしき姿は見当たらない。
ぼさぼさの髪で、くたくたのTシャツに、サンダル。いや、花畑に行くなら、スニーカーだろうか。登山のときと同じかもしれない。あのときの、足元に土をつけて笑っていた顔を思い出す。
そんな姿が、混雑の中からふいに現れるような気がして、長次は目を凝らした。
ふと遠くに、風に揺れる白い布が見える。人混みのなか、ひときわ白く目立つワンピースの姿がある。麦わら帽子をかぶり、立ち尽くしている。
一歩、近づく。
もう一歩、視線を凝して、息を呑んだ。
あの夜、耳に刺さるように放たれた、まさにその姿をした小平太が目の前に立っている。
「久しぶりだな」
麦わら帽子を深々とかぶり、その広いつばが顔に濃い影を落としていた。眼差しはその奥に沈んで、よく見えない。
声をかけられないでいると、小平太がおもむろに手を引く。こんなふうに乱暴に触られるのは初めてだった。
道中、会話らしいものは交わされなかった。ただ無言のまま、その背に従った。
辿り着いたのは、見渡すかぎりの赤い花畑であった。ひなげしであった。風が吹くたびに、赤がいっせいに揺れる。無数の花弁が波のようにうねり、その一つひとつが、紅の濃淡を持っていた。
朝露を含んだようなもの、陽を受けて透けるもの、まだ咲ききらぬ蕾。空の青と、土の茶と、花の赤が、ただそこにあるだけなのにどうしようもなく胸を締めつけた。
そのなかに、白い小平太が立ち尽くしている。
その姿は、この世のものとは思えぬほど美しく、さっきまでこの腕を掴んでいたのに、どこまでも遠くに感じた。
その距離を、埋める術がない。
「移動するか」
小平太がぽつりと呟いた。あいまいな返事を返す間に、彼はすでに歩き出していた。
向かう先は、あの店のある方角だった。
つまりは、キャストと客として、戻るということなのか。
問い質す言葉も喉に詰まり、長次はまたしても、何ひとつ言えずに、その背を追った。
しばらくして、見覚えのある風景が広がりはじめる。あの店の近くにあるホテル街の一角だ。
あの夜のあと、避けるようにして通らなかった場所だった。看板に見覚えがある。記憶の底に沈んでいた空気が、喉奥をひりつかせる。
小平太は振り返らない。ただ、すこしだけ首を傾けて、長次の手をぐっと引いた。
無言のまま、休憩用のホテルの自動ドアの前に立ち、まるで何事もないように振り返る。
「したいんだろ?」
まるで、他の客と同じように見られているようだと長次は思った。
数多の客がこの場所に彼を連れ込み、同じように触れ、同じように満足して帰っていくことがあったのだろうか。私も、同じに見えているのか。小平太を、同じように見ていると、思われているのか。
「……違う」
したいんじゃない。そう心の中で否定し、言葉を探していると、小平太が長次の方へ振り返る。
「じゃあなんだ」
まなざしに、かすかな苛立ちが混じっていた。どんな返答でも、彼はもう構わないような顔をしていた。
このまま何も言えなければ、その他大勢と同じになってしまう気がして、しかしそれでも何も言えず、長次はただぶんぶんと首を振った。
「……とりあえず入るぞ」
小平太が、帽子をくいと押さえて、ため息まじりに言った。背を向けた彼の肩越しに、麦わら帽子のリボンが風に揺れている。
長次は、ひどく悔しい気持ちで、ふたたびその背を追った。