花と蜜蜂 三

 二人の住まいは案外近いらしく、その話ぶりからすると、自転車でも容易に来られる距離のようで、互いの家から等距離にある、大きな駅で落ち合うことになった。
 長次は、約束の時刻よりも常に早く来る男だった。
 背もたれの硬いベンチに身を預け、改札口を見つめていたとき、遠くで大きく手を振る影が、視界の中に唐突に現れた。
 顔までは判然としないが、肩の張り、腕の振りの大きさ、そして無駄のない歩幅——それらの調和は、見紛うことなく、小平太子のそれであった。
 けれども、近づくにつれて、ある違和感のようなものが胸中に生じてくる。髪は短く、乾いた草のようにぼさぼさと立ち、そして何より、服装が。
「長次、おはよう!」
 そう声を上げて笑う彼は、まるで山そのものが人のかたちを取って現れたかのような出で立ちであった。
 通気性に優れたハーフジップのシャツは、胸元に小さなブランドロゴを湛える。パンツはトレッキング用らしく、機能性と均整を両立し、裾はほんのわずかに絞られて、靴に泥が入りにくいよう設計されていた。足元は、色合いこそ洒脱で一見スニーカーに見えたが、ソールは厚く重く、かかとは山を押し返すかのように高く屹立していた。靴の側面には、かつて踏んだ道の名残りが白く乾いて残り、それが幾度も山を往来した証となっていた。
「……おはよう」
「どうした長次。何か言いたげだな」
「随分と、重装備だなぁと」
 そう言いながら、長次は自分の姿を見下ろした。
 薄手の長袖に撥水加工のパンツ、街歩き用のスニーカー。いかにもハイキング寄りの軽装だった。
「そういう長次は、軽装備だな」
 交わされたこの一言のうちに、すでに二人のすれ違いのすべてが、象徴のように潜んでいた。
 それも当然だ。
 小平太は普段より、山に登る人間だ。以前、夜明け前から登った山のてっぺんで、朝焼けを独り占めにしたという話を、誇張なく語っていた。
 一方の長次はといえば、小平太に影響されて、近所の丘に散歩がてら登った程度の経験しかなかった。
 それならばロープウェイを使おうか、と小平太は提案してくれた。
 
 機械の力で吊り上げられた先には、すでに眼下に開けた景色があり、それだけでも十分に美しい。だが、そこからさらに一時間登れば山頂だ。せっかくだし登ってみないか、と言って振り返る小平太の背中に、何も言えずついていくしかなかった。
 山頂で弁当を広げれば、時間としてはちょうどよいはずだった。
 長次はそう見定めながら、慎重に足もとへ視線を落とした。
 砂の混じる登山道は、緩やかにうねりながら続き、左右の灌木が風にそよいで葉の影を揺らしていた。ひと息つくたびに、肩先を風が撫でる。首筋を伝って落ちる汗の感触は、やけに生々しかった。
 そのとき、隣から声がした。
「最初、変なやつだなーと思ったんだよなぁ。長次のこと」
 思いがけない言葉に、背負ったリュックの重みが急に現実を取り戻し、重々しく肩を引いた。
「初めて会った日のことは、よく覚えている」
「そりゃあそうだろ。私が客と喧嘩してるところに、長次がいきなり声も出さずにやって来て、私の目の前に立ったんだ」
「あれは……お前が十五歳だと嘘をつくからだ」
「仕方ないだろ。そう言う設定なんだから」
 小平太はけたけたと笑いながら、初めて会った時のことをぽつりぽつりと話し始める。
「無口だし、なんか……いっつも観察してくるくせに、自分のこと全然見せないだろ?」
 長次が視線を巡らせると、小平太は道の縁に咲いた白い野花へ目を落とし、それから仰ぐように空を見上げていた。木洩れ日が陽に透けた睫毛の先で、かすかにきらめいている。
 彼は歩きながら、独り言のように言葉を紡いだ。
「店でね、私のこと面白がってる客ばっかりなんだ。女みたいな格好して、愛想振りまいてるやつに対してさ、自分が上に立てるって、そう思ってる。ああいう連中、見ればすぐわかるんだ。目つきで」
 語り口はあくまで軽かった。だが、その声の奥に、白い冷気のようなものがひそんでいた。
 灌木を抜ける風の音と、乾いた砂を踏む足音がひびく。遠くで一羽、鳥が短く鳴いた。
「でも、長次は違ってた」
 不意に小平太は歩みを止めた。後ろをついていた長次も、数歩遅れて足を止める。
 小平太はふり返り、まっすぐにこちらを見た。
「私のこと、そういう目で見てないだろ?」
 声の調子は戯れめいていつつも、その眼差しは冗談を拒んでいた。
 返事を捜す間もなく、言葉は続いた。
「だから本当に嬉しかったんだ。これからも友達でいような」
 近づいてきた彼の手が、長次の肩に軽く触れた。汗ばむ掌が離れるまでのわずかな間に、何か言葉では言い尽くせぬ感情が込められていた。
 その背中が再び歩き出す気配を残して、道の奥へ向かう。
 長次は、その場に立ち尽くした。
 否定するにも、肯定するにも、言葉が喉を通らなかった。ただ、口を開きかけては、何も言えずに終わる。
 ふいに、朝の記憶が浮かぶ。弁当を詰めたときの、台所に差す光の白さを思い出した。
 ひじきは好き。煮豆は嫌い。彼がはっきりそう言ったわけではなかった。けれど、いつかぽつりと洩らした言葉が、長次の耳には静かに、しっかりと残っていた。長次は、輪郭を結ばぬ感情の襞から、少しずつ小平太を知ろうとしてきた。
 ここまで言葉を交わしてなお、掴みかねる想いがあるのかと驚いた。
 胸の奥で、微かな震えが始まり、輪を描くように熱がひろがっていく。それが恋なのか、それとも憧れなのか、定かではない。
 
 幾たびか道を折れ、山頂にたどり着いたとき、風が静かに抜けていった。
 視界は一挙に開け、遠く山裾の稜線の向こうに、霞のような街影が淡く浮かんでいた。空と大地のあいだに何の隔てもなく、ただ透明な空気が広がる。
 風の奥に、かすかな鳥の声と、葉擦れの音が混じる。喧騒も、怒声も、この地には存在しなかった。ただ、ひとつの世界が静かに終焉を迎えたあとのような、潔いまでの沈黙があった。
 
 小平太が荷を降ろし、岩の上にどさりと腰を下ろす。肩でわずかに息をついている。
 長次もその隣に座る。ふたり分の影が重なり、ゆるやかな午後の陽を浴びながら、ぴたりと寄り添う。
「弁当を……作ったんだ」
「え」
 長次が包みから弁当を取り出すと、小平太は目を丸くして驚いた。次の瞬間には飛びつくように手を伸ばし、箱の蓋をひらく。
「すごいな長次」
「……食えるか」
「当たり前だ」
 一口食むと、膝を軽く叩き、声を上げた。
「うまぁい」
 にっと笑ったその顔に、額の汗が陽光に照らされて光っていた。
 その笑みを見た瞬間、長次の背中から肩先へ、何かが静かにほどけていく。赦しのような安堵であった。
 しばらく咀嚼を続けていた小平太は、空になった弁当箱を名残惜しげに見つめ、ぽんと掌を胸に当てて言った。
「もっと食べたい! また作ってくれ」
 その声音には、どこか無垢な明るさがあった。
 まるで、駄々をこねる子供のような、濁りのない欲望の発露だった。
「うん」
 長次は頷いた。ほんのわずかな迷いもなく、言葉が口を出た。
 目の前で笑い、汗を拭い、またと告げるこの人が、今ここに在るということがただただ嬉しかった。
 陽にきらめく額も、肩先に揺れる短い髪も、夢の中で見たままのような気がした。
 着物の裾を翻すあの幻影も、店先で見た黒髪の小平太子も、そして今この山の上にいる男も、すべてがひとつの存在となる。
 
 ようやく何もかもが腑に落ちた。
 運命という言葉は、小平太という名のただ一人の人間に結びついた。その確信が、長次の胸に、静かに輪を描くように広がっていく。
 小平太は「友達でいよう」と言った。胸の奥にどれほど強い情熱が生まれていたとしても、それを守らねばならないと、長次は決意した。
 

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