花と蜜蜂 二
あの女、いや、男は、小平太子と名乗った。
不思議なもので、小平太子とは言葉がよく弾んだ。
こんな性分の人間に会うのは初めてだったが、どこか既知のような、奇妙に懐かしい親しみを覚えた。
二人の間に沈黙が訪れても、それが間延びとは感じられず、埋めようと焦る気にもならなかった。
小平太子は、自分のことをあまり隠そうとはしなかった。
足繁く店に通ううち、彼の身の上については、おおよそ聞き及ぶこととなった。
昼は体を動かす現場で働いていること、店には週に三度だけ顔を出すこと、そして、この場所に身を置くことに至った理由まで。
曰く、金遣いが荒いから。高い時給が出るならば、なんだっていいらしい。クレジットカードでの借り入れにも、ほとんど呵責はないそうだ。その語り口には、どこか他人事のような薄さがあった。
長次は思った。こいつ、本当に何も考えていないのではないか。あるいは、考えるという仕草すら、忌まわしく思っているのかもしれなかった。
いずれにせよ、このまま目を離していればある日ふと足を滑らせ、すべてを一度に取りこぼしてしまうような、そんな予感があった。無頓着と鈍感とが、かりそめの気楽さのようにその身に纏わりついているだけのことだ。
私が見ていなければ——と、長次は思った。どうにか手綱を引いておかねばならぬ。小平太子は、そう思わせるたちの人間であった。
週末はどのように過ごしているのかと訊ねると、釣りだの登山だの、あるいはキャンプだのと、野外での活動を好むらしかった。
そうした自然の話題に及ぶとき、彼の声はわずかに低くなり、目の奥には、どこか遠い景色を映しているような光が宿った。
長次とは正反対とも言える過ごし方であったが、その対照のなかに、むしろ奇妙な魅力があった。
ある休日、ふと思い立って釣具店に立ち寄り、竿と最低限の道具をそろえ、ひとり川へ出かけた。釣果は皆無だったが、落胆はなかった。
川面を撫でる風と、水音とが思いのほか心地よく、時の経つのも忘れた。
竿を握る手の傍らに、小平太子がもし居たとすれば、どのような顔をして、どんな風にいたずらを仕掛けてくるのか——そんな想像ばかりを巡らせた。
小平太子に会わない日は、何気ない景色のなかに、折にふれて彼の面影を感じることがあった。
道ばたに咲く名もなき草花を見ては、あいつなら躊躇いもせずに踏みにじってゆくだろうと想像し、雨の日には、傘もささず笑いながら濡れている姿が脳裏をよぎった。
気づけば、生活のあらゆる場面に彼の面影が、微かに、けれど確実に滲んでいた。
そんな日々が、三ヶ月ばかり続いたある夜のことであった。
いつものように店の一角に腰を落ち着け、グラスを傾けていたとき、小平太子が唐突に口を開いた。
「そうだ長次、明日の予定は?」
長次は、反射的に口を開いた。
「特にはない」
「そうか。何もしないのか」
小平太子の言葉を受けて、長次はふと思った。そういえば、ずいぶん長く店に通っていながら、自分のことをほとんど話したことがない。
もともと長次は、問われても率直に語らぬ性質だった。だが、ひと呼吸置いた末に、なぜか彼には何もかも話すべきだと、根拠もないままそう結論づけた。
「……近くの山にでも登ろうかと、考えていたところだ」
「なに。長次も山に登るのか」
この数ヶ月のあいだに、幾度となく彼が登った山について聞かされていた。彼は、長次にも元来そうした習慣があるのだと思い込んだらしく、意外そうな顔を見せた。
だが、それは違っていた。単に、長次が小平太子に影響された、それだけのことだった。
「長次も登るなら、ちょうどいい。一緒に行こう!」
なんの躊躇もなく、まるで以前から決まっていたことでもあるかのような声音だった。ただどこか、その提案を口にするのを待ちかねていたような気配があった。
長次は、ふと胸の奥がざわめくのを感じた。
この九十日のあいだに、変わったのは自分ばかりではなかったのかもしれない。そんな予感が、かすかに胸をよぎった。
一緒に山へ行く。それは、あまりにも簡素で、どこにでもある誘いであったが、長次にとってはそれだけで小さな衝撃に等しかった。
ふたりの関係は、これまでずっと、夜の店という限られた空間に閉じ込められていた。その外へと出るというだけで、空気がまるで変わってしまう気がした。
山登りとなれば、小平太子は一体どのような装いで現れるのだろう、と思いを巡らせた。あの滑らかな黒髪を風になびかせ、陽光のなかで笑う姿が、不意に脳裏に浮かぶ。
弁当など、持って行ったところで、彼はどう思うのだろう。多く作りすぎてしまったら、かえって困らせてしまうだろうか。いや、むしろ、喜ぶだろうか。そんな取りとめのない考えに囚われながら、ふと我に返る。
彼の好みは、自分が思っていたよりも、遥かによく知っていたのだった。店で出された料理に対し、「これは好きなんだよな」「あれは、ちょっとなぁ」といった呟きが、三ヶ月のあいだ、確かに耳へと届いていた。それらの言葉は、音として消えてゆきながら、しかしどこかで沈殿し、長次の中に積もっていた。意識の届かぬところで、それを拾い集めていたのである。今さらのように、そのことに気づかされて、胸の奥がわずかに疼いた。
結局長次は、当たり障りのない弁当を用意し、待ち合わせの駅へと向かった。
昨夜、煮物にするか、炒め物にするかで、台所に立ったまましばらく迷っていた。食材は黙って眼前にありながら、ひとつも口を開いてくれず、その沈黙のなかに、小さな葛藤がいくつも浮かんでは消えた。
彼が苦手だとこぼしていた煮豆だけを除いて、その他はすべて、自己主張を持たぬ色合いで詰められた。