花と蜜蜂 一

 時折、繰り返し見る夢があった。女の夢である。
 現実のいかなる風景にも属さず、あるいはこの世の風習のいずれにも連ならぬ、冷ややかで、完璧に調えられた黒髪の女。その髪は夜よりも濃く、滴るような光沢を孕みながら、肩から背中へ、絹のごとく滑り落ちていた。
 その女はいつも着物を纏っていた。深く腰の据わった立ち姿で、背を向けて佇み、こちらをふと振り返ろうとする。だが決して顔は見えない。見えるかと思ったその刹那、夢は唐突に終わり長次は目覚める。
 長次には、理屈も証明もなく、その女が運命の名を与えられた存在のように思えた。


 その夜は金曜日だった。

 平日の疲れを引きずるように、上司に連れられて得体の知れぬ店へと足を運んだ。自ら進んで行くような趣ではなかった。
 店内はわずかに甘く、どこか化粧の腐臭めいた空気に満ちていた。女装した男たちが、頬に貼りついた笑を微動だにさせず、酌をして廻っている。キャストたちは皆、女性の格好をしながら、どこかしら「男」であることを放棄していなかった。
 周囲を見渡せば、客もまた笑いをひそめて戯れに酔っているようで、その光景には何か悪趣味なものを感じた。

 卓についた一人のキャストが声をかけてくる。
「こういうお店、初めてですか?」
 長次はうなずきかけて、ぎりぎりの声で「はい」と答えたが、それは相手の耳に届かなかったようだ。
 金髪のウィッグが肩にかかり、華奢なドレスの隙間からは骨ばった胸の稜線が見えた。その男は、聞き返すでもなく、眉尻をわずかに下げて、空中の返事をやり過ごした。無視されたと思ったのだろう。こうした行き違いは、長次にとって稀なことではなかった。
 上司は、もう一人のキャストの肩へ腕を回して上機嫌だった。
 長次はその姿を横目に、胸中に仄暗い苛立ちと羞恥とを感じながら、そっとため息をついた。キャストの笑顔に、彼はある種の労働を見出し、やりきれぬ気持ちが増した。
 そんなとき、店の奥の卓が、にわかに騒然となった。
「お前が十五歳なわけねえだろうが!」
 怒声が響き、グラスがテーブルに叩きつけられ、続けざまに割れる音がした。客の罵声が天井の照明を揺らすように店内を満たす。
 長次は顔をしかめ、その方を盗み見た。
 数人の黒服が男を取り囲み、宥めようとしている。その正面に着物姿の人物が一人、立ち尽くしている。
 がっしりとした背中だった。着物の生地が背筋に沿って張りつき、肩幅の広さと、厚みのある胴体の輪郭を隠しきれていない。よくある女形の柔らかな線ではない。力を使う男の、重さと熱を孕んだ、現実の背だった。
 その人物は、ひと言、何かを言ったようだった。喧騒にかき消されて声までは届かなかったが、その動き方ひとつで、声を張らずに相手を抑える自信と、乱暴にならないまでも強く出る覚悟があるのが、こちらにもはっきりと伝わってきた。
 その人物の背中を見た瞬間、長次は、体の芯に熱いものが這いのぼるのを感じた。
 繊細でも、儚げでもない。まぎれもなく鍛えられた男の背だというのに、そこには、夢で幾度も見たあの後ろ姿が、寸分違わず存在していた。
 髪は黒く、艶やかで、光を吸い込むように深い。それ以上に強く胸を打ったのは、その確かさだった。
 長次は、酔いが引いていくのを感じた。ただ黙って、その背中を見つめていた。顔は、まだ見えない。だが、もう目を背けることも、言い逃れることもできなかった。
 気がつけば、長次は立ち上がっていた。ただ考えるより先に、呼吸の奥に残る何かに従っただけだった。そして、その黒髪の女、いや、男の目の前に立った。
「……十五歳なんですか」
「え?」
 返ってきたのは、思ったよりも素直な、ひっかかりのない声だった。それが作った声なのか、あるいは生まれ持ったものなのか、長次には判断がつかなかった。
「本当に、あなたは十五歳なんですか」
「本当に十五歳なんです」
 堂々とした返答だった。
 そんなわけが、あるはずがなかった。その会話に意味はなかった。嘘が本当で、本当が嘘に見えるこの場で、こんな問いかけ自体が、すでに破綻していた。
 ——それからである。
 もともと外食など滅多にしなかった長次が、その男を目当てに、週に三度もあの店へ通うようになったのは。

 

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