あとくち(仮)
相変わらず、蝉の声が空一面に網を張るように鳴り響いていた。高音の連なりが、耳の奥をじりじりと焦がしていく。夏の陽射しは容赦がなく、校舎の白い壁は、まるで発光しているかのようだった。地面に落ちる影の輪郭はかすれ、アスファルトの上にゆらゆらと陽炎が立っていた。息を吸うたびに、肺の奥まで火照りが染みてくる。
小平太は、額の汗を手の甲で拭いながら歩いていた。制服のシャツは背中に張りつき、襟元に滲んだ汗が首筋を伝って落ちていく。
「せっかくのオフの日に補習だなんて」
補習のあと、小平太は不機嫌だった。文句を並べながら、乾いたグラウンドの縁をぐるりと回り、校門へと向かう。横を歩く長次は、ただひたすらに黙っていた。前髪が額に張りついて、白い首が、ちらちらと汗に濡れて光る。
「このまま何にもせず帰るだけなんてなぁ」
気の抜けたような声で言うと、長次がじっとこちらを見る。
「お前はどうしたいんだ、って顔してる」
「……うちに、来るか」
「そういえば最近行っていないなぁ」
「来るのか、来ないのか」
「呼んだくせに来るなって言うなよ」
その会話には熱があった。夏の温度に紛らわせて、隠そうとしていたが、声の低さと呼吸の揺れに、それは滲んでいた。
長次の家は、こどものたくさんいる小平太の家と比べてとても静かだった。集合住宅の奥、ひんやりとした白い玄関を抜けると、無人の空間特有の、やや乾いた匂いが漂っている。家の人は働きに出ていて、夕方を過ぎても帰らないらしい。それは小学生の頃から変わっていない。昼間、長次の家にふたりきりになることは、かつては珍しくなかったが、小平太がこの家に入るのは、随分と久しぶりのことであった。
中学に入ってから、二人はほとんど一緒に帰らなくなった。放課後のチャイムの音を背に、互いの姿を視界の端に収めたまま、別の方角へと歩いていく。そんな日が長く続いた。
長次は成長するにつれ、やりたいことが増えていった。それらすべてを抱えきれないことも、少しずつ知っていった。本が読みたかったのは確かであった。選んだのは自分だ。誰のせいでもない。それでもときどき、校庭から聞こえる掛け声に胸をつかまれるような日があった。その声のなかに小平太の名が混じっていると、指先がほんの少しだけ揺れた。そのあとはいつも、しばらく本の文字が頭に入らない。それが嫉妬なのか、後悔なのか、あるいはもっと別の感情なのか、そのときの長次には、言葉にすることができなかった。それは奇妙なほど熱を帯びていて、もっと近づきたいと、触れてしまいたいとも思った。だから距離をとった。いっそ見えない方がましで、見れば見るほど、自分の中のざらついた感情に触れてしまいそうだった。
離れようとするそぶりは、いつだって正確に伝わってしまう。小平太は、それを止めなかった。正確には止めなかったのではなく、止められなかった。何が起きているのかよくわからないままで、長次が何を思っているのか、自分がどうしたいのか、そもそもこの距離がどういう意味を持っているのか、言葉も、手も出せずに、ただ、黙って見ていた。何度も呼びかけそうになって、けれどそのたび、喉の奥が重くなった。それが優しさだったのか、諦めだったのかは、今もわからない。声をかければ届くと、いつでも埋まると思っていたその隙間は、いつの間にか火をはさんだ距離になっていた。火は消えなかった。遠ざかるほどに、むしろ色を増していった。
そしてあの日、小平太がその火を越えてきて、それを受け止めたとき、長次はようやく、自分が何を恐れていたのかを知った。
廊下を通ってリビングへ入ると、長次はまずはじめに冷房の電源を入れ、部屋中の窓を閉めた。サーッという低い音がしはじめて、冷気が頬を撫でるようにして通り過ぎた。照明は点けず、薄いカーテン越しに午後の光が差している。外はあれほど暑かったのに、この部屋だけは、季節から切り離されたようにひっそりとしていた。コンビニで温めたカレーは、ローテブルの上で蓋を外されて、湯気が静かに立ちのぼっていた。その匂いは濃く、香辛料が鼻を刺激する。けれど、部屋の空気は不思議と澄んでいた。冷房の風が薄く流れ、熱がまとわりつくことはなかった。その奇妙な乖離の中で、小平太はふと声を出した。
「長次、昼は」
当たり前の問いかけだった。コンビニで買うものを選んでいるときにも同じことを訊いた。あのとき長次は、家にある、とだけ答えたので、それ以上は深く考えなかった。けれど今、長次はまったく動かない。床に座り、膝の上で手を組んだまま、わずかに視線を落としていた。
「食べない」
その声は、冷房の風にさらわれるようにして、音もなく消えた。小平太はプラスチックのスプーンを手にしたまま、目の前のカレーに目をやった。
「なんで。ばてるぞ」
長次は答えず、背筋をわずかに強張らせている。涼しい部屋のなかで、ひとりだけどこか、体の熱を持て余しているようだった。視線は焦点を結ばず、どこにも触れない。唇の端が、なにか言いたげにわずかに動くが、音にはならなかった。
「長次、体調悪いのか。帰ろうか」
「悪くない。帰らなくていい」
「じゃあなんで」
小平太の言葉はまっすぐだった。疑いも、遠回しもなく、ただ心配しているだけの声音だった。その率直さに触れた瞬間、長次は、ほんの一拍目を伏せて、小さく首を振る。ただその動作に、彼の沈黙すべてが込められていた。指先が、テーブルの端をなぞる。
彼は——後ろから抱かれたかったのだ。食事を控えたのは、ただそのためだった。腹が満たされては、叶わない。そんな、子どもじみた、彼なりの準備であった。けれど、小平太はそれを察することなく、自分のスプーンでカレーをすくい、無理やり長次の唇に押しつけた。
「ほら、口あけろ」
「たべたくないって言ってる……」
抗議は喉の奥で潰れて、スプーンが、唇を押し割るように突っ込まれた。強引に口をふさがれて、咀嚼させられている自分に気づき、羞恥が一気に、熱をともなって上がる。ゆっくりと、嚥下する。喉を通るたびに、悔しさと情けなさと、食欲とは別のなにかが、腹の奥でうごめいた。したかったのに。思い通りにいかない。けれど、彼の手の中で、自分が小さく抑えられるその感覚が、長次にとってたまらなかった。
「うまいだろう」
「ん、う」
そう言って笑う小平太の横顔は、なんともいえず眩しかった。
長次の唇の端から、カレーがひとすじこぼれる。
「ついてるぞ」
そう言って、唇のすぐ横をゆっくりと指で拭う。
その一瞬、長次の目が、熱を帯びたまま細められ、ぽつりとつぶやいた。
「ちゅーしたい……」
長次の声は、カレーの匂いの残る空気を揺らして、静かに落ちた。ささやきともつかないほど小さくて、それでいて、何よりも確かな意思だった。その声音があまりに幼く、あまりに色気を帯びていたから、小平太はぞくりと背筋を震わせた。
小平太はゆっくりと身を乗り出し、長次の肩にそっと手を添えて、唇を重ねた。初めのひとつは、浅く、そっと触れて、すぐに離れた。探るように、互いの熱を確かめるための、控えめな接触だった。なめらかで、湿っていて、飢えていた。すぐにもう一度、そしてまた、もう一度。触れては離れてを繰り返し、次第に物足りなくなったのか、長次の唇はまるで乞うように、熱を追うように、わずかに前へ出た。指で拭いきれなかったカレーを、小平太はゆっくりと舌で攫った。長次は、くすぐったそうに小さく身じろぎしてから、僅かに口を開き、遠慮がちに舌先を覗かせた。それを見逃すはずもなく、小平太はすぐさま、その舌ごと唇を塞いで奪った。唇は熱く、舌先を絡めるたびに、奥にある沈黙がとろりと溶け出すようだった。長次は目を閉じたまま、小さく肩を震わせていた。拒まれていないことが、小平太をさらに深く駆り立てる。首筋に唇を移し、襟元から指を差し入れ、肌に触れる。すべらせた唇が、喉のくぼみに触れ、舌の先でうっすらと滲む汗をすくった。
「ん、ん」
息にもならない吐息が、長次の口から洩れた。小平太の指先が、スラックスにきちんと収められていたシャツの裾に触れ、それを、迷いなく引き抜いたあと、腰のあたりに指を差し込み、布を少しずつ持ち上げる。すると、わずかに肌が覗いた。汗に濡れた下腹の皮膚が、冷房の風にひやりと震える。そのまま、小平太は前立てに指をかけ、ボタンをひとつずつ外しはじめた。プラスチックの留め具が、ぷち、ぷち、と静かに音を立てる。まるで意図的に、時間をかけているような手つきだった。
下から二つ目のボタンに指がかかったとき、すでに長次の胸元はゆるやかに開いていた。布のあいだから覗く鎖骨、薄い胸板、ゆっくりと腹が上下するのがみえた。シャツの縁が彼の頬にかかり、冷たい布地が長次の肌と、小平太の唇の間をかすかに隔てていた。唇が胸に落ちるときも、シャツはそのままで、布がわずかにずれ、汗ばんだ皮膚が覗き、それを追いかけるように舌が這う。露わにならないままの長次の身体に、小平太の熱だけが押し寄せていた。ふくらんだ胸の骨を、唇でなぞる。胸の尖ったところに触れると、長次はわずかに背を反らせ、指先がテーブルの端をぎゅっと掴んだ。
「ふ」
「気持ちいい?」
「ん、ふぅ」
声にならない声が、喉をふるわせる。小平太は舌を使って、そこをもう一度、円を描くようにゆっくりと刺激した。声を出すまいと噛みしめていた唇が、とうとうほどける。長次は小さく震えながら、指先は跳ねるようにテーブルから離れ、かわりに小平太の腕を掴む。それに気付きながらも、そのまま下へ、腹筋の稜線に唇をすべらせる。じんわりと滲む汗の味が、塩気を帯びていた。
指先は腰骨に触れたあと、腰元にかかるベルトへと移動した。ベルトの剣先を掴んで軽く引くと、つく棒が起き上がってピン穴から外れる。ベルトを緩めてやったあとに、フロントホックをはずして、そのすぐ下のファスナーをゆっくりと下す。その音と同時に、長次の指先がぴくりと動いた。下着越しでも、どれほど昂っていたかは明らかだった。
「たってる」
「……言わなくていい」
小平太の声が無邪気に響く。長次は眉をひそめ、わずかに身じろいだ。小さく息を吸って、視線を逸らす。逃げたいのではない。けれど、曝け出されたことにどうしようもなく反応してしまう、そんな風だった。臍のすぐ下に音を立てて口づけて、そこからスラックスと、下着のゴムに指をかける。その瞬間、長次が、小平太の手首を掴んだ。強い意志を感じて指先がぴたりと止まる。
「リビングで、脱ぎたくない」
「え」
長次は小さく首を振る。拒絶ではない。自分の部屋なら、どれだけ乱れても、何をこぼしても、あとでいくらでも対処ができる、というこだわりだった。
「長次の部屋、エアコンないじゃん!」
不満げというより単純な驚きの声だった。リビングには冷房が効いていて、ふたりは今まさに、汗を引かせながら触れ合っていたのだ。そのままこの部屋で続ける方が、快適に決まっている。そう思っていた小平太には、長次の一言は意外だった。長次はすぐには答えず、一拍間を置いて、ぽつりと言う。
「……いい、部屋がいい」
小平太は、理由を尋ねようとはしなかった。長次がそれを望むなら、止めるべきではないとわかっていた。長次が言うならそうしなければならない。そう思って、軽く肩をすくめるだけだった。
「ほら、水飲め」
「ん」
小平太は自分のことなんてどうでもよかった。問題は、朝から何も口にしていないであろう長次の体調だった。頑固なやつだ。部屋を移すことも、触れ合うのをやめることも、絶対に譲らないとわかっていた。だからせめて、水分くらいは摂らせておきたくて、小さなグラスを手渡すと、長次は素直に受け取って、静かに喉を鳴らした。氷はすでに溶け始めて、すっかり冷えた水が口の中を通ってゆく音すら、今はやけに響いて聞こえる。二口、飲み終えてグラスを返す。それを受け取ると、そのまま迷いなく口をつけ、豪快に、残った水を全て飲み干してしまった。その喉元は、ごく、ごくと大きな音を立てながら上下を繰り返した。その動きに、長次の視線が吸いついた。ただ水を飲んでいるだけなのに、なのに、どうして、こんなにも惹きつけられてしまうのか。彼の喉が動くたび、何かが、胸の奥で、ゆっくりと熱を帯びていった。
残った水を飲み干すと、小平太は空のコップをテーブルに叩きつけた。強すぎる音に、長次が思わず肩をすくめる。見上げると、彼の目つきが、すっかり変わっていた。さっきまでの軽さが消えて、まるで獲物を逃さないと決めた獣のようだった。
「お前が脱ぎたくないって言うなら、運んでやろう」
そう言って、長次の体を軽々と持ち上げる。不意をつかれて言葉も出ないまま、視界がふわりと揺れた。
運ばれた先の長次の部屋は、窓を全開にしても、わずかに風が入るだけだった。ベッドに長次を下ろすと、小平太はしばらく、覆い被さるようにして、彼を見下ろしていた。扇風機は最大出力でも、肌に当たる風は頼りなく、ただ音だけが部屋に響いている。それでも長次は、ここがいいと、言葉ではなく態度で示すように、黙って小平太を見上げた。熱気が肌にまとわりつき、息をするたびに汗が滲む。触れたいと思った。長次を見下ろすこの角度から、目が離せなかった。
いつからだろう。無垢なふりをしていたのに、こんなにも色を帯びて、私を惑わすようになったのは。——いや、違う。欲しいと思っているのは、きっと、私の方だ。
小平太はぐるぐると考えていた。
いつから、こんなふうに、長次を見ていた?
沈黙が落ちたまま、時間が伸びていく。その間に耐えきれなくなったのは、長次の方だった。視線をそらさずに、ためらいながらも、ゆっくりと腕を上げ、小平太の首に両腕をまわし、そのまま、引き寄せた。顔が近づいて、息が触れる。そして、長次が低く呟く。
「……もう、どこにも行くな」
その言葉は震えてもいないし、感情を込めようとしてもいない、ただ、心の底から出た音だった。小平太は、瞬きもできずにそれを聞いた。
小平太はもう、迷わなかった。言葉の続きを待つことも、相手の反応をうかがうこともせずに、唇に食らいついた。噛むような強さだった。抱きしめる腕に力が入る。舌を割り込ませるようにして、呼吸も奪うように口付ける。長次は、あたかもこの身が、ついに帰るべき場所にたどり着いたと信じるかのように、目を閉じた。この力に、ただ浸っていればよい——そう思えたのだ。
唇が離れても、なお肌が粘つくような熱を帯びていた。小平太の手は、首筋を撫で、鎖骨を辿り、やがて胸へと降りて、指先だけで輪郭をたどった。その触れ方は、獲物の全貌を確かめる狩人にも似て、あるいは、寝入りばなの誰かの夢をこぼさぬように、静かに髪を撫でる仕草に似ていた。肩口を滑った唇は、乳頭を掠め、腹に触れ、そのたびに、ぞくりとした感覚が背骨を駆け上がる。熱が、臍の下に集まる。指が、肌の深部を確かめるように沈みこみ、長次の吐息が少しだけ変わると、小平太は、それを逃さず拾った。唇が再び落ちる。今度は腿のつけ根。内ももを開かされ、布がわずかにずらされた。冷たい空気に触れた長次のそこが、ひくりと震えた。羞恥ではない。欲望にきわめて近い、受容の予兆だった。視線が絡んだ。小平太の目は、鋭く、それでいて慈しみに濡れていた。
小平太は、長次の背を沿わせるように抱き、ゆっくりと身を寄せた。重なるようにして、体を密着させる。そして、熱を持った自身を、腰のあたり、ちょうど仙骨の少し下、そこに、ぐりぐりと押し当てた。
「は、あぅ」
長次の腰がわずかに引けるのを見逃さずに、小平太が囁く。
「この後何するかわかってた?」
「あ、ァ」
その声が耳に落ちた瞬間に、まるで目の奥で何かが弾けたように、一瞬、視界がちかちかと揺れるのを感じた。長次はゆるやかに手を伸ばした。その手に震えはなく、欲望は、すでに彼の羞恥を凌駕していた。彼はそのものに触れ、指先でなぞり、撫で、重みを確かめるように持ち上げた。そして、己の身体の深くへとつながるそこへあてがった。
「……ここに、挿れて欲しかった」
彼にとってそれは、犯されるのではない。自らの意志で、彼を受け入れるという、ひとつの決定であった。それを聞いた小平太は、ほんの一拍、呼吸を止めた。それから、はぁ、と大きなため息をついて、まるで泣き出しそうな赤子を宥めるときみたいに、長次の頭を優しく撫でた。
「今日は最後までしない」
「ん……」
「一緒にきもちよくなろうな」
肌が触れあい、吐息はこすれ、お互いの熱が、しだいにひとつになっていった。動きはおだやかで、焦りも、痛みも、どこにもなかった。ふたりの鼓動が、ずれることなく、ゆるやかに重なって、その熱は、ふたりのあいだで、静かに果てた。そのあと、何も言わずに額を寄せたまま、どちらからともなく、腕が相手を包んだ。あらゆる言葉の代わりに、ただ、ぬくもりだけが残された。
部屋の空気は、さっきまでの熱をすっかり手放したように、ひどく静かだった。カレーの匂いはもう消えて、代わりに甘い麦茶の香りが漂っていた。リビングの隅に置かれた物干しスタンドには、湿ったタオルがふたつ、端を揃えて掛けられている。
小平太は、後ろのほうだけまだわずかに湿っている髪を、何度か無造作にかき上げていた。濡れた前髪の下から覗く目元は、どこかぼんやりとしていて、湯上がりの体からは、さっきまでの火照りが名残のように残っている。一方で長次の髪は、しっかりと乾かされている。リビングのローテーブルの上には、問題集が広げられていて、長次は静かに問題文を読んでいた。小平太はその隣で、床に座り込んだまま、なんとなく足先を揺らしている。脱衣所では、洗濯機のドラムがまだゆっくりと回っている。先ほどふたりが脱いだものが一緒に入っていて、リズムのずれた回転音が、部屋の静けさを小さく揺らしていた。
そうしていると、玄関の方から鍵の回る音がした。一瞬、ふたりの動きが止まる。次いで、扉の開く音、靴音と、帰ってきたことを知らせる誰かの声がする。
「あれ、小平太くん。久しぶりだね」
「お久しぶりです、お邪魔してます」
小平太はすっと立ち上がって、軽く頭を下げた。にこにこと人懐こい笑顔を浮かべている。
「ふたりで課題してたんだ、えらいねぇ」
「はい、けっこう真面目にやっていました」
そう言って、ちらりと長次を見やる。長次は目をそらすでもなく、ただ、何も言わずにえんぴつをくるくると回していた。洗濯機が乾燥を終えたことを知らせる音が、間の抜けたように鳴り響いた。小平太は音の方をちらりと見て言った。
「服、乾いたっぽいんで。そろそろ帰ります」
「えっ、洗濯してたの?」
「はい、汗だくだったんで。長次の許可は取りました!」
家の人がふふ、と笑う。
「いいよ、遠慮せず洗って。暑いもんねえ」
「ありがとうございます」
小平太は、すました顔でお辞儀する。その姿を見ながら、長次は視線を伏せて、机の上のプリントの端を、なんとなくなぞっていた。
制服に着替えた小平太が、玄関で靴を履いている。体を少しかがめて、かかとをとんとんと床に打ちつける音が、小さく響いた。長次は、その少し後ろの廊下の壁にもたれて、黙ってそれを見ていた。腕を組むわけでもなく、足を動かすわけでもなく、ただ、そこに立っている。小平太が顔を上げる。玄関のドアの方ではなく、真っ直ぐ長次の方を見た。目が合う。
「じゃ、また来るな」
いつもの声だった。明るくて、気負いがなくて、何もなかったみたいな顔だった。長次は頷かなかったが、その目だけは、まっすぐ小平太を見ていた。その様子を見て、小平太は小さく手招きをする。長次は一瞬ためらったが、何も言わずに数歩、近づく。小平太は、その距離まで引き寄せておいて、すっと背伸びをすると、耳元に口を寄せた。
「長次の部屋にエアコンついたら最後までしような」
ささやきは熱を帯びていて、冗談めかした調子のなかに、どうしようもなく確かな欲が混ざっていた。長次は返事ができずに、ただ耳の奥まで染み込んだその声を、一度だけ、まばたきをして受けとめた。
ドアが閉まる。
残された長次は、その場に立ち尽くしたまま、しばらく、何も考えられなかった。
リビングに戻ると、家の人は、ソファに横たわってくつろいでいた。戻ってきた長次を見るなり、からかうように矢継ぎ早に問いかけてくる。
「シャワー、浴びたの?」
「うん」
「小平太くんと、何してたの?」
「課題」
「楽しかった?」
「……うん。あの」
「なに?」
「僕の部屋に、エアコンつけて欲しいです」
小説→漫画の作業はたいへんだった。